「システム」として畜産をみる
畜産システム研究会報 18,1-13(1997)

広島大学生物生産学部  三谷克之輔

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目次

はじめに

 地域における生産と研究の交流を大切にしたいという想いを一つとする10数人の仲間たちと,畜産システム研究会を設立したのは昭和61年の5月でしたが,皆様のご協力とご支援のお陰によりまして設立10周年を迎えることができました.この報告は畜産システム研究会の設立から今日までの経緯を織り混ぜながら,研究会が求めてきたもの,あるいは求めようとしていることを,「システム」という言葉に託してまとめたものです.
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1.研究会の発足

 畜産システム研究会は1986年5月にこの福山の地でスタートしました.なぜ1986年かといいますと,福山には広島大学の,以前は水畜産学部と申しておりましたが学部がございましたが,広島大学が酒の都西条に統合移転するということで,1986年の7月には私の勤務する附属農場が移転しました.その移転を機会に,それまで地元の方との交流がございましたが,この交流を形にして残していこうではないかということで10数人のメンバーでスタートしたのがこの研究会でございます.

 なぜ,畜産システム研究会という名前をつけたかと申しますと,今日のタイトルに掲げましたようにシステムとして畜産をみるということですが,スタートした時はもっと単純な考えでした.生産と研究というのがどんどん乖離している.これを何とか関係を改善できないか,生産者と研究者が一緒になって学びあう場ができないものかという想いがありました.これは一般には,専門細分化と総合化の問題として説明されます.しかし,総合化とは単なる細分化された研究の成果を待ってそれを結びあわせるものではないという思いがあり,それをシステムという言葉に託しました.生産と研究がお互いフィードバックしながら生産も進むし研究も進む,こういったことをイメージしておりました.
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2.大学農場の将来計画

 研究会のスタートは個人的なグループによるものでしたが,これを何とか広島大学としての仕事にしていけないかという思いもありました.大学農場の将来計画を移転時に作成したのですが,その計画に地域とのつながりのなかで教育研究をしていく,あるいは開かれた大学にしていくことが付属農場の使命であるということを盛り込みました.大学農場の役割は教育・研究・普及の三位一体にあるとして,普及という使命を加えた計画を作成したのです.普及というのは,アメリカではextensionと言いまして州立大学の使命としては良く知られた言葉なのですが,日本では文部省と農水省の管轄があって,普及というのは農水省の管轄にあって,言葉自体が大学には馴染まない制度となっています.そこで計画作成に際しましても,普及という言葉に相当抵抗される先生方もいました.しかし,地域とのつながりで教育研究をしていこう,あるいは開かれた大学にしていこうという構想は,総論としては反対はなく将来計画に組込まれたわけです.
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3.大学と地域との関係

 この農場の将来計画を実現する一つの方法として,研究会組織というのは一番柔軟に事が進められます.大学として何かをやる場合には組織機構,規則等を変えていかなければならないという作業がある.いずれそうしていかなければいけないのだと思いますが,先にそういうものをつくっても形式だけの抜け殻になってしまう.研究会という柔軟な組織のなかで大学と地域との関係を個人の主体的な関係としてつくっていったらどうかというふうに考えました.そこで,研究会の発足当初に大学の仲間とか県の関係者とかに研究会の輪を広げていけないかということで働きかけたことがございました.そうしましたら「総論賛成,各論反対」というよくあるケースで,なかなか理解が得られない.そのときの議論のなかで印象的だったものは,「大学がコンサルタントをやるのか」という学者サイドからの意見と,「遊んどる暇はない」という生産者サイドからの意見でした.

1)普及の意味

 「大学がコンサルタントをやるのか」というのは,普及事業は行政機構としてもっていますので,大学がそこに頭を突っ込むのかというような意見です.これまでの研究と普及の関係には,研究者が研究して,それを指導機関が普及していくという構図があります.しかし,研究者と指導機関によって指導される農業があり生産者がいるという構図はどこか間違っていると思います.生産者は研究の手段や方法が違うだけで,毎日が創意工夫を必要とする現場にいる立派な研究者でもあるわけです.

 研究と普及と生産は,縦の関係ではなくて横の関係であり,お互いに連携している.ただ,具体的に技術指導をするとか,経営指導をするとかということは,生産者の個性や能力を含めて農業の制度や現場の実態というものに相当通じている必要があります.わが国の大学では日常的にそこまで対応するシステムとはなっていませんから,そこは行政や民間の普及・指導機関の持ち場だと思います.

 大学農場というのはある意味では現場ではやれない,やっていないようなことを新しい発想で研究していく場であって,現場にない切り口でものごとを見る視点を提供することに大きな役割があると思います.大学と現場との自由な交流があることで,研究の発想に現場が生かされ,研究の成果が現場の発想に生かされる.生産と研究がそれぞれの立場でお互いを補い合うことができる.そういった大学と地域とが一緒にやっていく自由な関係というものは,今の制度では馴染んでいませんので,大学や県の関係者の理解が十分に得られなかったということがありました.

2)「遊び」の意味

 もう一つの問題は,研究会に参加することが,「遊んどる」と理解され,そのような暇はないという生産者の発想なり立場の問題です.遊んどるというのは,遊んでいるという意味ですが,私の教え子の酪農家に言われまして,これはこたえました.学者のやっていることは,どうせ遊びであり,現場で実際に苦労しているわれわれにはつきあっている暇はない,という主旨の発言だと思います.実情を大変にするどく指摘した発言ではあります.

 しかし,「遊んどる」という一言で現状を否定したのでは,生産と研究の新しい関係は育ちません.また,「遊んどる」暇がないほど生産に没頭していても,ひょっとするとその努力の方向は,もがいてももがいても光の見えない,蟻地獄への道かも知れません.自分の農業をたまには日常の外から見ることも大切でしょう.

 一方,新しい時代を築く人々は,ある意味では日常的な地域の常識からはみでたところで仕事をしていますから,孤独であることも多いと思います.しかし,この研究会には様々な個性の人が集っていますから,共感できる仲間や良きライバルを見つけることができます.今回も研究会に農家の方がたくさん参加していただいておりますが,研究会の役割としては,こうやって1日勉強することにもありますが,夜,懇親の場で交流するのが楽しみだという方がたくさんいらっしゃいます.そういう中でいろいろなものの考え方を学び,自分の農業あるいは畜産を確認しながらやっていくことも,農業の楽しさを倍増させてくれるのではないでしょうか.そういう意味で,研究会で勉強したいというだけでなく,仲間に会いたいという会員の皆様が増えていることは,この研究会の非常に大きな財産だと思っております.
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4.研究会活動の二本柱

 畜産システム研究会に広島大学の多くの教官の方の協力をいただこうという試みは賛同がえられませんで,広島大学周辺という意味での地域との交流は,山陽地域畜産技術研修会という別の組織でやることになりました.
 この研修会は私方の大学の教官とか県の試験場あるいは普及所の先生方が協力して,会員制ではございませんで年に1〜2回程度集る場を作ろうという感じでスタートしたのですが,やはり地域との問題を主体的に考えていく,それを自分のこととして積極的に考えていくということがありませんと組織としては維持していくことがなかなか困難なことで現在は活動を行なっていません.

 しかし,当初は地域との関係は別の組織でやっていくということになりましたので,畜産システム研究会としてはこれと重複しないように,システムの道具であるコンピュータにウエイトを置いた活動をすることにしました.これが研究会活動の一つの柱となっています.
 もう一つの柱は,乳牛と和牛の交雑に関するものです.これは,私自身が乳牛と和牛の交雑に関する仕事をしてきたということと,当時は他の研究会や学会,県関係の事業などでまともに交雑の問題を取り上げようとするところがなかなかなかった.そこで,積極的に研究会のテーマとして取り上げていったということで,交雑に関心のある方々に集っていただいたという経緯がございます.

 現在の畜産システム研究会の会長をお願いしている大森先生も,農水省の関係で交雑利用に関する委員会の委員として早くから乳牛と和牛の交雑の問題に取り組んで来られた方ですし,また,この福山にあります中国農業試験場の場長をされた方であり,ぜひこの研究会の会長にとお願いした経緯がございます.この交雑のシステムとしての意義につきましては,後程またお話することにしまして,ここではもう少しコンピュータ活用を中心とした活動について少し振返ってみたいと思います.
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5.SBAR

 1980年代に入って,パソコンは8ビットから16ビットと急速に発達し,普及しておりました.当時はプログラムを作成しないとコンピュータを使いこなせないという時代でしたので,研究会でプログラムをつくることへの期待は大きいものがありました.また,研究会を作っても,今度は何のことで勉強会をやろうかとその都度テーマを考えるような会はなかなか長続きしないのではないか.現場にデータがあって,そのデータを持ち寄りながら問題点をいろいろ話し合っていくための研究会にしようという考え方がございました.

 現場のデータ管理にパソコンを使う,そこにあるソフトを使えばデータが蓄積する.お互いにそれを共有しようという考え方がございました.共有するためにはソフトを共有する,データを共有する,こういったシステムがいる.当時は手作りのプログラムでパソコンを動かしていた時代でしたので,研究会としてそういった共通のソフトを持とうではないかということになりまして,それが「SBAR」という形で実現しております.

 当時は,ロータス123などはまだなくてマルチプランがありましたが,酪農用プログラムだとか肉牛用プログラムを作る方が主流でして,専用ソフトごとにデータを入力しなければならない.入力したデータをはきだす方法は後で考えられるにしても,そのデータを共有することは大変だし,10人の人が10通りのプログラムをつくればデータ管理の方法はバラバラになってしまう.さらにこれからデータを入れようかという時には,すでに蓄積しているデータを表の形で入れた方が楽だというようなことがございまして,表の形でデータを管理しながら,しかもその表の形で入力したデータファイルはいろいろな言語,BASICが中心なのですがフォートランやCOBOLでも読めるようにしようという考え方で作っていったのがこの「SBAR」です.

 最近のWINDOWSの世界になりますと,表集計だとかグラフをかかせるとか機能面での充実には目を見張るものがあります.ただ,ロータス123とかエクセルというソフトは表の形でデータを処理加工しようという考えで発達したものであり,データ管理はデータベースソフトにやらせるという考えが基本となっています.「SBAR」のようにデータベースそのものを表の形のままで自由自在に管理しようという素人の発想で作られたものではございませんので,ファイルを作ったり追加したり検索したりという作業をしようとするとやはり,そういう思想が表にないので少し使いづらい.そういう意味では自慢になりますが,この「SBAR」というのはそういう思想を持ったソフトで,重宝して私自身は使っておりますし,一部そういった考え方に賛同してデータをそれに蓄積していただいている方もいらっしゃいます.例えば,家畜改良事業団の佃さんは,自分の仕事の関係でいろいろな種雄牛の情報を「SBAR」を使ってデータ入力されていたということで,ぜひ皆さんにも共通の財産として使わせていただけないかということで「種雄牛名簿」ということで研究会のライブラリーに加えさせていただいております.これはソフトとデータの共有を実現した成功例と言えます.
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6.生産と研究のあり方

 畜産システム研究会は,生産の現場との交流ということを考えてスタートしたわけですが,現場と交流する過程で生産自体のあり方,研究自体のあり方ももう少し考えていかないといけないのではないか.ただ生産と研究が交流してフィードバックするというだけではうまくいかないのではないかと考えるようになってまいりました.

 とくに交雑というのは酪農の仕組み,肉牛の仕組みが日本にすでにできあがっておりまして,酪農というのはホルスタインを主体にいかに牛乳を搾っていくか,高泌乳をめざしていくかという技術,それだけではございませんでしょうがそういうところに主な目標がある.肉牛にいいましても日本の場合は和牛です.肉牛=和牛という仕組が生産から研究までできていまして,とくに産地間競争ということで県内で閉鎖的に育種を進めながら県同士が競い合って行くという構造ができあがっております.

 そういった間で両者をかけ合わせるような仕事をしてまいりました関係上,どちらからもいい感じで受入れられない.現在もまだ酪農にとっては傍流といいますか,酪農の中の単に一つの副産物の利用だろうというのはまだ良いほうで,交雑をやるから乳牛の改良が進まないとか更新用雌牛が不足するといった交雑迷惑説もございましょう.
 また,和牛関係者からいえば和牛の価値を乱すものだというか,まがい物を作ってもらっては困るというような感覚があろうかと思います.そういったところで仕事をしておりますと,固定観念の恐ろしさといいますか,無意識のなかに潜んでいる固定観念の大きさという問題に直面いたします.

 システム研究とはまさに多様なものの見方を提供することであり,固定観念を打破することにあるという思いを強くするのであります.さらに申し上げれば,単なる意識の問題ではなくて,その意識の下にこれまでの体制が守られているという側面もあります.そういった意味では,システム研究はある面ではこれまでの枠組みに対する挑戦ともなるわけです.

 先程,「大学がコンサルタントをやるのか」という学者の発言を紹介いたしましたが,この考え方の中にも一つの固定観念があろうかと思います.それは,研究分野で言えば,科学者というのが上位の階層にいるといいますか,科学者が上にいて技術者がいて,技能者がいる.たとえば大学などは教官と技術職と技能職というように職制でもはっきり分れている.こういう考え方,枠組みがある.

 もう一つ言えば基礎科学があって応用科学がある,基礎をやっている方が偉いのだというような構造がどうもある.大学は基礎科学をやるところであって,基礎科学とは純粋に世俗から隔離されたところに存在するという考え方が,農学の農業離れに大義名分を与えてきている.

 現場に実際にコミットしたような仕事は科学者のやる純粋な仕事とはかけ離れたものであるという大学の教官集団がある一方で,研究者が研究したことを現場に指導するという農水省管轄下の農業の技術指導体制があります.

 しかし,いろいろ現場と交流していくと,生産者を含めて現場の方々は素晴らしい能力を持っておられます.私自身,先ほどこの研究会の魅力の一つとして仲間に会えるということを紹介しましたが,現場の方々と交流することでいろいろなことを教えられてきました.そういったことをどう評価するか,どう取り上げていったらいいかという問題があります.畜産システム研究会では,これまでの研究の枠組みを超えた仕事に取り組みたいし,そのような仕事が正当に評価されるようにしたいという思いがあります.そこで,これまでの枠組みの問題点について,3つの問題,すなわち,一つは部分と全体の問題,二つ目は画一性と多様性の問題,三つ目は分析することと作ることの問題,こういった問題に整理して考えてみたいと思います.

1)部分と全体


 現在,学問というのはどんどん専門細分化しています.細分化していってそれを寄せ集めれば全体が説明できる,研究の部分部分をどこかでやっているからそれで全体はカバーできるという考え方が現在の研究者の主流となっています.これは,17世紀のデカルトの『方法序説』に代表される要素還元主義の流れにそったもので,これまでの科学的方法の本流となってきています.

 自然は複雑きわまりない対象であるが,神が創り給うたかどうかは別にして自然の摂理という設計図がある.その設計図どおり自然は動いているのであって,その設計図を解明していくことが科学であり,そのためには全体はあまりに複雑なので,部分部分に切り取っていってそこを解明すれば,それを寄せ集めて組み立てれば全体が説明できるといった考え方です.

 ところが,どんどん専門細分化した分析は進むけれども,全体である農業との関係は薄れていく.農業がどうあるべきかという問や答を失った研究者が急速に増加していく.要素還元主義によって,農学栄えて農業滅ぶどころか,科学栄えて農学滅ぶというところまで農学者は来てしまっている.

 これに対してもう一つの考え方がありまして,アリストテレスの「全体は部分の総和以上のものである」という言葉もその一つを表しているわけですが,部分に切り刻んでいってそれを合わせれば全体ができるわけではない.あるいは部分に切り刻んでいくことで失っていく物がたくさんあると,そういったことが古くより考えられてきました.

 とくに生物学の扱う生命現象の解明というところでそういった問題意識が強くありました.例えば,卵細胞が発生の場と時間によって筋肉や骨や心臓などに分化していくのは,要素が構成されていく過程であり,それを支配しているのは単なる要素ではなくて,何か生命力というようなものに違いないというものです.

 われわれは解剖学のように生物を部分に切り刻んでいく方法は良く知っていても,部分から全体を作り上げていくという方法論を持ち合せていない.とくに生物ではありませんので,結論を急ぐと生気論(Vitalism)のように生命現象を生気(エンテレキー)という観念論的な要因によって説明してしまうことになる.このようなとから,部分ではなく全体を取り扱おうとする研究は,いかがわしい科学として批判の対象にこそなれ,これを発展させようとする勢力にはなかなか育ってきていない.これをどう学問的に取りあげるかという問題があります.

 研究の最終目標は,部分ではなく全体であり,現実世界の現象をどう理解するのかということです.そのためには全体を部分に分解しただけではだめなわけで,部分と全体の関係を知ることや,部分から全体を構成していく方法などを知る必要があります.

 幸いなことに,そのようなアプローチの方法としてシステム科学が発達してきています.最近は複雑性の科学という言葉が流行していますが,カオスだとかフラクタルだとか,自己組織性だとか,ゆらぎだとかネットワークだとかいろいろなことばを耳にされていると思います.複雑な現象は,これまでの還元主義的な方法論だけでは説明できないという指摘が各方面から出されておりますし,それに変る新しい方法論によって複雑な現象にアプローチしようとする流れが,いろいろな分野でふつふつと沸き起こっています.部分と全体の問題をいかがわしい科学としてではなく,正統な科学として発展させていく見通しが得られつつあるように思います.

 畜産システム研究会という名前にも,これまでの要素還元主義の弊害を克服した新しいアプローチの方法を農学の領域に定着させたいという願いが込められています.われわれは,どう生きていくのか,実践していくのかを問うために学問をやっているわけです.したがって,学問をやるのは研究者だけの問題ではない.一般市民あるいは生産者自身の問題としても,部分と全体の問題は大切な課題でしょう.畜産システム研究会としてもこの課題に挑戦していきたいと思っています.

2)画一性と多様性

 次に科学と価値観の関係について,画一性と多様性という観点から考えてみたいと思います.今までは科学というのは,心の問題とか価値観というものを取り外すことで成立してきたわけです.どんなものを作ろうが,たとえば原子爆弾を作ろうが,それは操作する人の責任の問題であって作る人の問題ではないと.科学というのはそういう価値観から離れたところにあるのだということで,現代科学は進んできたと思います.ただ,科学者というのは日常生活をしている生活者でもあるわけで,それぞれの価値観を持っている.例えば,「大学がコンサルタントをやるのか」という言葉には,自分が扱っている研究対象はそういう世俗的な価値観から外れているという意識がある.しかし,研究にはそういう価値観を持込まないと言いながら,実は一つの大きな価値観でものを見ている場面が多いのではないでしょうか.

a)固定観念

 科学の方法論には価値観は入らないけれども,どういう目的で何を明らかにしたいのかという問題設定においては,大いにその人の価値観というものが含まれる.例えば,乳牛=高泌乳,和牛=しもふり,と一言で言いましたが,私方の大学でも,私が乳牛と肉牛の交雑をやっておりますと,酪農を主体にした農場といいながら乳牛の研究をやっていないとしきりに言われます.また,F1の研究を始めたころは,ある学者に「F1はけしからん」と言われました.ところが,F1が今日のように定着してくると,その同じ学者が今度は,「F1は良いがF1クロスはいかん」と言う.多くの研究者のイメージするところは,1万sクラスの乳牛を飼っていて,共進会へ出しても最優秀を取るようなすばらしい牛を大学の農場だから揃えていくべきで,そういう方向で研究すべきだというものです.

 ある学生も,これは和牛のことですが大学には共進会へ出すような牛がいないという.もっとも,私の大学にはF1はいますが和牛はいません.私には乳牛や肉牛という区分はなくて,牛の能力として両方を連続的に捉らえている.乳牛=高泌乳,和牛=しもふり,という一つの枠組みの中で牛を捉らえて大学農場を整備していき,その方向に研究を進めていくというのは,実は一つの価値観,あえて言わせてもらえば一つの固定観念の中で研究しているわけです.

 現在の農業に新しい視点を導入するということではなくて,現在の農業のありようを追認しながら後押しをすることが,研究や教育の目標となっていく.研究教育が現状を変革するのではなくて,研究教育が現状に追随していく.私の農場では,トラクターの実習などやらせますが,そういうことから実習に入るということを最近は反省しています.機械化実習を当然のような雰囲気でやりますと,農業というのはトラクターに乗らなければできないものだという農業に対する固定観念を植付けてしまうところがあるからです.

b)科学の目指してきたもの

 農業というのは自然を相手の仕事ですから,自然との向き合う仕方でいろいろな農業があっていいはずです.ところが,科学というのは自然から人間を切り離して,人間が自然を説明したり制御したりしようとすることですから,自然を人間の力でいかにコントロールするか,あるいはそのような人工物をいかに作り出すか,というところを目指してきているところがあって,その方向での成果が得られることが発達だという一つの価値観を科学自体が持っている.少なくとも科学者の多くはそういう価値観で研究している.

 しかも,全体との関係を熟慮しないで部分の成果だけで,全体の成果につながるような物語を短絡的に作ってしまう.科学は価値観を除外しているように装っていますが,実は研究者が自分の価値観を研究目的に意識的に持込まないかぎり,そのような画一的な価値観のもとで科学は営まれていくのです.その結果,農業も自然を人工的にコントロールすることが発達だという図式が描かれることになる.自然種付けよりも人工授精,人工授精よりも胚移植の方が発達だということになり,畜産をそのような方向に進めることが進歩だということにつながっていくのです.

 しかし,生産にとっては,状況に応じてそれぞれの技術を使い分けたり,組合わせたりすることが大切なのであり,生産によっては胚移植より自然種付の方が良い場合も当然あるわけで,胚移植の方が常に優れた技術であるとは決して言えないはずです.

c)社会的存在としての科学

 人間を含めて生物は多様性を備えることで,様々な環境の変化のなかで生存できる仕組みをつくってきました.農業も多様であることが生存の秘訣ではないかと思います.自然農法から植物工場まで,どのような農業を目指すかは価値観によって異なります.

 科学においても,価値観によってどのような研究を目指すかは異なってきます.科学自体が一つの価値観のもとに成長してきているものですから,自分のかかわる科学と自分の価値観の関係を問い続けることは科学者の責任でありましょう.

 そのためには,まず何を明らかにしようとしているのかという研究目的が明確に説明される必要があります.また,その研究の背景には,何を創りだそうとしているのかという問いかけが求められると思います.しかも,その研究が全体の畜産なり農業とどう関係していくのかという問いかけが重要となってくると思います.

 大学における研究は,社会的な圧力から解放されて自由に推進されるべきだとされ,大学の自治と学問の自由が誇らかに宣言されてきました.確かに社会的圧力に対しては自主性を守るべきでしょう.しかし,科学というものが社会と隔絶した存在でないことも確かなことです.クローン羊の誕生は,科学の立場からすれば画期的な研究成果でありますが,欧米はこの研究が人間に及ぶことに敏感な倫理的反応を示しました.人間の尊厳に及ぶような研究は中止させる,あるいは研究費を出さないという迅速な反応を示しました.このことは,現代の科学の抱えている2つの問題を提起していると思います.

 その一つは,科学研究の推進を科学者の価値観だけに委ねておくことができない時代となってきているということです.もう一つは,今回は研究抑制ということで研究に対して社会的かつ政治的力が関与しましたが,日常的には国益または企業的利益に添った研究の推進という意味において,研究費の配分や研究分野の拡張縮小に対して社会的または政治的力が関与し続けてきているということです.

 また,研究者集団について言えば,「真理の探求」という錦の御旗のもとに,一方において集団内での研究領域の拡大を含む自己主張の闘争があり,その一方においては外部に対して自己を防衛するという,人間集団のいずこにも存在する組織体制があります.その体制内においては,研究内容もさることながら,人間関係において研究費が配分され研究が推進されているという現実もあります.この現実においては,研究者として集団内で評価されることが優先され,研究の社会的評価なり責任を問われることは,これまであまりありませんでした.

 しかし,農学などの応用科学の真髄はものを作ることにありますので,どのようなものを作って行くのかということは,研究者の手だけに委ねておくことはできないと思います.一方,農学が大規模な組織機構や企業的利益に添った研究に偏重していくことも避けねばなりません.これからの時代は研究の推進や評価を,研究者仲間だけでなく一般市民や農家の参加のもとで行なっていく必要があるでしょう.畜産システム研究会が,そういう次元で研究者と生産者と市民が交流し切磋琢磨できる場に育っていければと思います.
 夢だけでなく,現実に研究会で研究資金を集め,研究費を公募によって分配していくことを提案したいと思います.研究費の配分を希望する研究者には,その研究計画を研究会で発表していただき,配分は研究者と生産者と市民で構成した研究推進委員会で決定し,研究成果も研究会で発表していけるようにしていく必要がありましょう.

3)分析することと,物をつくること

 次に画一性と多様性ということを,分析することと,物をつくることの関係でもう少し考えてみたいと思います.日本人はエコノミックアニマルだとか,個性がなくて画一的だということとがよく言われます.日本人というのは目標が一つに定まると非常に能力を発揮して自動車にしても何にしても良い物をつくると.だけど基礎科学を発達させてこなかったではないか,欧米の基礎科学にただ乗りしているではないかと外国から良く非難されます.このただ乗り論は,基礎の上に応用があるということを暗黙の前提としていますが, 私は,分析することと物をつくることとはどうも違うのではないかと思っています.

a)作ること

 科学というのは答えが1つでないといけない.皆の合意の基を作っていく,合意としての知の体系を築いていくものですから,答えがたくさんあっては科学にはならない.

 ところが作るということはまったく答えがわかった上で組み立てるわけではなく未知の要素,作るというのは生きていくという意味も会社を運営していくという意味も含めて,未知の要素がたくさんある.しかも,作る過程では必ずエラーがあるわけですね.その中で目標を定めたら限られた環境,時間と資源の範囲内においてできるだけエラーを少なくしながら目標の実現に向かって進んで行こうとする,こういったことが作ることですよね.

 分析することは解がたくさんあってはいけないのですが,作ることは10人作れば10通のものができるし,10通りの生き方ができる.そのあたりの問題は価値観だから各個人で考えることであって,科学では扱わないのだということできています.その中で,私は作るということは現場があるから現場で鍛えられていくのだと思います.目標があれば,牛を飼うことでも自動車を作ることでも作りながら創意工夫して改善していくということで鍛えられる場がある.そういう点では,現場でものを作りながら知恵をつけていくという点でわが国には優れたものがあるのだと思います.

b)分析すること

 ところがものを考える,分析する,基礎科学というのは基本的には物をどう見るか,世の中をどう見るかということですね.しかも分析するということは対象をある切り口から見ることであり,対象そのものを知ることではない.ことに,これまでの科学というのは対象を限定することで専門が生れ,その限定された対象に対しても多様なアプローチが可能なのですが,ある特定の切り口で研究していく行為を科学として認知してきていると思います.

 したがって,対象をどう限定し,どういう切り口で分析していくかという思想哲学が大事だと思うのですが,それがわが国ではあまりない.少なくともそのことを問おうとしない.世俗と離れたことをやっているのが基礎で,世俗に関係したものは応用だという程度の思想しか持ち合せていない.

 西欧にはキリスト教をはじめとした宗教が日常生活にあり,またその宗教からの知識の解放という哲学の長い伝統があり,その上で科学というものを発達させてきていると思います.しかし,日本は明治の文明開花によって分析方法,手法だけを輸入した科学がはびこってしまった.仏教も日常生活から離れてしまっていますし,価値観という形而上学的な問題を問うことを意識的に遠避けてきている.

 その一方で,われわれは真理には背くことができないという共通の価値観を有している.しかも科学こそがその真理を提供してくれるのだから,科学の成果を受入れて行くことが真理に近づいていくことだというような風潮がある.そこには,科学が宗教的なものにまで肥大化してしまう危うさがあるし,われわれが画一的に物を考えるようになってきている原因もそこにあるのではないかという気がします.お手本がある時代はそれでよかったのかも知れないけれども,これからのお手本のない時代には,もう少しいろいろな視点で物を見る見方を養っていく必要があると思います.

c)作る学問としての農学

 ことに,農学の原点はものを作ることにあるわけですから,作る過程で得られる知恵というものを,農学の方法論の中に取入れていく必要があると思います.

 システム研究には最適化とか意思決定支援の研究が含まれますが,これも研究に作るという視点を取入れる一つの方法であり,どう作って行くべきかという意思決定に際して,より精密で正確な情報提供とより幅広い状況判断を可能にするような多面的なものの見方なり道具を提供していくことができる.

 また,もう一つの動きとしてコンピュータの発達によって,問題を解くことはできなくても,実行することができるようになってきている.新しい研究分野としてカオスとかフラクタルというのがありますが,これのおもしろいところは,現象を分析的に記述することは困難だけれども,見える形にして表示することで容易に理解可能となる世界があることを示してくれたことです.

 シミュレーシュンとか仮想現実とかいう世界は,部分に分割して分析するというよりも,部分から全体を構成していく,作っていくという手法ですが,これも各人が勝手に作っておしまいとするのではなくて,作る過程をきちっと吟味し批判できるようにしていけば,科学に作るという視点の新しい方法論を提供してくれる可能性があります.そして,畜産システム研究会の大きな使命として,作ることを農学の正統な方法論として定着させていくことがあると思っています.
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7.パラダイムの転換

 全体性,多様性および作るということの3つの観点から,これまでの農業や科学の枠組みの問題点について整理しましたが,これらのことを含めまして,今,新しい物の見方,考え方が多方面から提案され始めています.それは17世紀以来われわれの考えの規範となってきた認識の枠組み(パラダイム)の転換を示すものと言えます.

1)還元論からシステム論へ

 まず,還元論からシステム論への流れがあります.要素に還元していけば全体が説明できるというのではなくて,全体をシステムとして説明していこうという考え方です.世の中は設計図どおりに動いているのでその設計図のメカニズムを解明するのが科学だというのに対して,そうではなくて世の中は要素と要素の関係でできていて,要素と要素の関係でそれぞれの要素にない新しい性質が創発されるのだというのがシステム論の立場です.

 例えば,例がいいかどうか,水というのは酸素と水素が結合してできるわけですが,水を酸素と水素では説明できないですね.一緒になって水という全く新しい性質のものができている.その水というのが今度は分子としてみればH2Oという水素と酸素の結合した形態なのだけれど,その分子(要素)が集合して,その集合体にエネルギーを与えると,たとえば低い温度だと氷だけれども,水になり,さらにエネルギーを与えると蒸気になって蒸発する.エネルギーを与えるとH2Oだけでは説明できない行動,振るまいをするわけです.そういうふうに要素と要素の関係,あるいは要素と環境の関係でその性質というものが作られていくのだという考えです.

 でないと生命現象というのは初めからDNA,遺伝子に全部その生き方が組み込まれているとすれば,生れたときから死ぬまでのストーリーが全て説明できることになってしまう.遺伝子というのはある意味では一つの規則を決めているのでしょうが,生物は環境との関係において学習しながら生きていくという部分が大きい.脳のメカニズムや免疫の機構がそうだし,免疫の機構では遺伝子は固定されているのではなくて移動するというのを発見したのがノーベル賞の利根川さんの仕事です.

 また,私がこうして話している最中に心臓も動いているし,肺も動いているし,脚も体を支えているわけです.こういったことを今までの科学ですと直列的に,AがあるからBがある,BがあるからCがあるというふうに因果関係で説明していくわけですが,実際は全部が並列で動いている.その細部を言えば筋肉から分子までいくわけですが,その関係がどういうふうになっているのだということは,その関係を切断して部分を還元論的に分析していったのでは掴み切れない.このような研究の立場が勢いを増してきている.

 このような立場については,さきほど説明しましたように複雑性の科学だとか全体はホールなのでホリズムとか言っています.これは全体論と訳すこ とができますが,全体主義を連想するような誤解を生む恐れがあるということで,包括主義と訳されたりしています.また,ギリシャ語では全体がホロスで部分がオンなので,部分と全体は分離できないという意味でホロンという言葉も使われていますし,このホロンを関係子という意味で使用している学者もいます.私はこれらを総称してシステム論とし,システム科学として体系付けるのが良いのではないかと思っていますが,現在はまだいろいろな考え方が提案されているという状況です.

 還元論は全体は部分を組み立てた機械のようなものであるという考え方につながりますので,還元論的なものの考え方は機械的世界観と言われていますが,これに対して全体論的な考え方を生命論的世界観ということもできるでしょう.

2)他者としての世界から自己を含む世界へ

 自然を解明するのは人間であっても,科学は自然認識から人間をはずしてしまう,価値観もはずしてしまうということですが,観測者であり認識者である人間を除外した他者としての世界というものは在り得ないという考え方も強くなってきています.

 しかも学問というのは自己を含む世界ですので,どう生きていくかということも含めて,人間を含めたアプローチの仕方がいる.作るということも人間を含めて考える必要がある.これまでのような人間を含まない機械的な世界ですと性能だとか効率だけで評価できるわけですが,人間を含みますと意味だとか価値だとかいうものが大切になってくる.

 最近の流通市場の話でいえば,ただ安ければ物が売れる,コストダウンさえすれば産業が成り立つということではどうもない.同じ物を買うにしてもそこにストーリーがいる.意味を見出そうとする.和牛とは何ぞやと言った時に,和牛の性能,効率,そういった面だけの評価だけでなく,和牛としての,農家が少頭数愛情をかけて大事大事にブラッシングしながら,場合によってはビールを飲ませながら飼っているというストーリーが消費者にとっては大きな効果を与えていく.そういったことが和牛だけでなく他のマーケッティングの分野でも考えられてきております.

 農業というのは人間が生きて行く糧を得るための自然に対する営みでありますから,そこから価値とか意味とかいうものを除外できるはずがない.これからは価値とか意味とかを取り込めるような研究を展開していくことが必要だと思います.

3)「言語による知」から「非言語による知」

 農家の方は朴訥であまり多くのことをしゃべらない方が多い.相撲取りも同じで,勝利インタビューで,「今日は良かったですね」とアナウンサーが言うと「はい」.「右上手を取ってどうのこうの..」と言うと「はい」.質問に対してうんとかすんとしか返事が帰ってこない.結局,アナウンサーが自問自答しているということがよくありますが,要するに相撲は勝てば良いわけでそういう説明をする必要はない.

 われわれ科学からいえばそこの説明のところだけを評価しようとする.ところが実際には感じるだとかいろいろな要素が別の物差としてあるわけです.そういうものをひっくるめて非言語による知の伝達ということがこれから大切な要素となってくる.マルチメディアということで文字だけでなく音から絵から全てが一体となって伝わっていくという時代的背景も含めて,これからは非言語による伝達が重要な意味を持つ時代となると言われています.

 一つだけ具体例を申し上げますと,われわれ科学をやっている者は,牛の状態を示す場合,体重が600sだとか言いますよね.確かに秤で測れば600sというのはでてきます.これは正確な数字ですよね.でも的確な数字ではない.その600sという数字で示された意味を考えると,太った600sなのか,やせた600sなのか分らない.

 われわれ研究者はそういう情報を補うためにボディコンディションとか,また数量化するための方法を持込むわけです.しかし,農家の方は数量化しなくてもぱっと見てこの牛は状態が良いとか,これはちょっと餌が足りないとか,これは病気ではないかと見分けるわけです.そういう牛の状態を例にしても,われわれ研究者が数量化できる部分は非常に限られていて,実際には農家の方が的確に把握されている部分が多いのに,これを経験主義だとして軽視して技術からどうも落してきている.

 現場では昨日と今日の変化から現状を把握している.エサを給与する前と後の変化を判断しながら牛を飼育している.ところが,研究者は分析結果に基づいた設計図により牛が育つという前提のもとに牛を飼う技術を組み立てている.そういったところで組み立てた技術で農家を指導するということは大変におこがましい話ではなかろうかと思います.これは現在の技術の組み立て方を否定しているのではありません.牛を飼う技術としては2つのアプローチの方法があるのに,現場のアプローチの方法を見落してきていることがいっぱいあるのではないか.設計図だけで農家を指導するということがおこがましいのではないかと申し上げたいのであります.

 現場のアプローチの方法を是非とも研究にも取り上げていく必要があると思います.しかも,その伝達方法や表現方法はいろいろあっていいし,いろいろなければ的確に伝達できないことだってあります.だけど学会では表現方法は形式が決っていますので,その範囲で伝達していかなければいけない.学会の形式におさまらない新しいアプローチの仕方とか,表現方法や伝達方式は,今のところわれわれの研究会で取り上げていくしかない.そいうことで,畜産システム研究会では研究者と生産者に同じ場で発表していただいて討論していただいています.まさにわれわれにとっては,この研究会を開催している今日と明日が研究の場そのものなのだという考え方できております.

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おわりに

 畜産システム研究会の設立10周年記念にあたり,私と研究会の10年の歩みと,なぜシステム研究なのかという思いをまとめさせていただきました.この報告は,平成8年12月に福山で開催された畜産システム研究会10周年記念大会でお話しさせていただいたものを,当日の講演内容の範囲内において書き直したものです.当日のサブタイトルは「交雑による乳肉資源の循環的活用を中心にして」としましたが,この部分は独立させてもう一つの報告にまとめたことをおことわりいたします. なお,この研究会については,もう一つの視点で養牛の友(819,1990)に「これからの消費社会と情報化時代の畜産」と題して紹介しておりますので,それとの重複はできるだけ避けるようにしました.畜産システム研究会の目的とするところにつきましては,これを合せて参考にしていただければ幸いです.

 この研究会が,生産と消費と研究のより良い関係を築いていくことに,これからも少しでも貢献していくことができることを心より念願致しております.

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参考図書

1. トーマス・クーン(中山茂訳),科学革命の構造,みすず書房(1971).
2. 内田義彦,作品としての社会科学,岩波書店(1981).
3. F.カプラ(吉富伸逸ら訳),ターニング・ポイント,工作舎(1984).
4. 山崎正和,柔らかい個人主義,中央公論社(1984).
5. P.チェックランド(高原康彦ら訳),新しいシステムアプローチ,オーム社(1985).
6. N.R.ハンソン(村上陽一郎訳),科学的発見のパターン,講談社(1986).
7. I.プリゴジンら(伏見康治ら訳),混沌からの秩序,みすず書房(1987).
8. 斉藤晶,牛が拓く牧場,地湧社(1989).
9. 渡辺正男,文化としての近代科学,丸善(1991).
10. 安田喜憲,大地母神の時代,角川書店(1991).
11. 清水博,生命と場所,NTT社(1992).
12. 日本総合研究所編,生命論パラダイムの時代,ダイヤモンド社(1993).
13. 多田富雄,免疫の意味論,青土社(1993).
14. 野家啓一,科学の解釈学,新曜社(1993).
15. 松岡正剛ら,複雑性の海へ,NTT社(1994).
16. 吉田民人ら,自己組織性とはなにか,ミネルヴァ書房(1995).